伴蔵鉄工


ど田舎の貧乏な家で育った父は中学卒業と同時に叔父の経営する会社に就職します。
 勤めた会社は大阪でも有名だった鉄工所「伴蔵鉄工」と言う会社です。父の叔父「竹中 健二」が戦前始めた会社です。父の仕事の礎になった会社ですので少しお話しましょう。


 阪神高速東大阪線を神戸方面からいくと、左手に日本冶金工業の看板「これから はステンレスの時代だ」と言う看板がありますが、それをまだ一般の人がステンレ スと言う言葉も知らないころから言っていて当時ステンレスが溶接できる溶接機 (TIG)が大阪に3台しかない時にそのうちの1台を所有していました。

 

 あらゆる金属を取り扱い、時には金の溶接の依頼もあったそうです。金の溶接時 は取引先企業の監視員が横にはりつき溶接したそうです。 そんな会社でしたので、原子力関係はもちろんあらゆるもの、取引先は「帝人」 「川崎航空機」等一流企業も多数取引があったようです。

 八尾に1000坪の工場を購入、ステンレスパイプの製造ラインを作るべく計 画を進行中(昭和41年)亡くなりました。健二は「立って半畳寝て一畳」住まい は質素なものでしたが、借金は無く、4つの工場(計2350坪)、亡くなった当時 で現金1億円を残していました。

 

 最大の失敗は後継者の育成をしなかったことでしょう!6年もしないうちにすべ て無くなり会社は倒産しました。

 

 

 

鍛冶屋


「鍛冶屋」と言う言葉を耳にすることがありますが、刀屋さん等、鍛造をする方ですね!でも製缶屋のこともそう呼ぶことがあります。なぜ製缶屋を鍛冶屋と言うのかについてはあまり知られていませんし、ネットでも載っていません。否定的にとらえている方もいるみたいです。父に聞くと昔の鉄工所にヒントがあります。

 

ステンレスの板をどうやって切ったか?

プラズマなんてありません。

どう切ったかと言うと直線はサンダーで、R部分やサンダーで切れないところは「へし切り」と言う切り方で切ったそうです。

 

 片手で持てるくらいの上刃と下刃が一緒になったような工具がありそれを一人が板にあて、もう一人が大ハンマーでぶったたきながら切っていくのです。6mm位の板はへし切りで切っていたそうです。


 あらゆるものに既製品がなかったので、たとえば鏡板を作る時は一枚の板からです。まず下にあてる部分的なR型を作ります。次に板の外から一人が型をあてもう一人がバナーであぶりながら大ハンマーでしばき上げ作りました。大きい物で3000φ位の鏡板をこのつくり方で作りました。

 

 ほとんどのものが一枚の板から切り出し、熱しながらたたき曲げたりして作っていたそうなんです。


そうです!まさしく鍛冶屋そのものの光景だったのです。